Congratulation! アッパ。Happy! 私達。(沢田昌代)

この Union Christ Missionary Office & Worship Place が 建てられて一年が経ちました。この建物はまさに神様が私達の中に立てておられる目に見えない神殿を目に見える形として表して下さった物だと思います。私達によって発見される前からこの建物は着々と神様の計画によって建てられていました。同じように私達の中にも着々と神様の計画によって神殿が建てられています。

○創世記1章1節「初めに神が天と地を作った。」

○ヨハネ1章1~2節「初めに、言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この方は、初めに神と共におられた。」

○エペソ1章4~5節「すなわち、神は私達を世界の基を置かれる前から彼にあって選び、御前で清く、傷のない者にしようとなさいました。神はみむねとみこころのままに、私達をイエス・キリストにあってご自分の子にしようと愛を持って予め定めておられました。」

この創世記1章1節の「初めに」を始められる前に神様とイエス様はおられました。神様はイエス様の十字架の死を用意なさって、私達を自分の子にする。という終わりまで整えて、初めを始められました。そういう意味でこの場合の漢字は初めてという意味で使う衣偏に刀と書く「初めに」ではなく、女偏に台と書く「始まり始まり」の意味の「始めに」だと思うのですがどうでしょう?

私はまるでとあるテレビの料理番組のようだなあと思うのです。最初に出来上がったフルーツゼリーが映って「今日はフルーツのゼリーを作ります。」と始まります。そう、もうできあがっているのです。「最初にゼラチンをふやかします。あっ、ここにもうふやかしたゼラチンがあります。それをお湯で溶かし冷まします。冷めたゼラチン液がここにあります。そこに小さく切った果物を入れます。(その果物もすでにカットされていて、お上品にちっちゃいカップに一つ一つ入れてあります)。そして2時間ほど冷蔵庫で冷やし固めます。あっ、もう冷えて固まったものが、冷蔵庫に入っています。」こんな具合に、もう始める前から完成した物があり、逆回しのように一つ一つを埋めていく、神様のご計画は始められた時には、もう、終わっているのです。

○マタイ16章21節「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」

○ヨハネ12章27節「今私の心は騒いでいる。なんと言おうか。父よ。このときから私をお救い下さいといおうか。いや。このためにこそ、私はこの時に至ったのです。」

イエス様は創世記1章1節の前に神様と十字架の死を約束なさいました。確実に実行される方なので、多くの苦しみを受けなければならない、殺されなければならない、なければならないのです。

先ほどのフルーツゼリーを作るとき、前もってゼラチンをふやかして用意したのは、その後フルーツをそのゼラチン液で固めるためでした。

前もって十字架の約束を神様とイエス様がなさったのは何のための用意だったのでしょうか?

○創世記2章16~17節「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪に知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』。」

このように神様はおっしゃったのにアダムとエバは善悪の木から食べて死ぬことになりました。でも

○マルコ10章45節「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、使えるためであり、また、多くの人のための、あがないの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

○ヨハネ1章29節「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

イエス様が自らいけにえとして、死ぬべき私達の代わりに十字架にかかり死に、そのおかげで、私達は死から救い出されました。

アダムとエバが善悪の知識の木から食べて、死ぬことを神様はもう知ってらっしゃった。いいえ、アダムとエバではなく、私が善悪の知識の木から食べることを既に知ってらっしゃったのです。私が死ぬことを既に知ってらっしゃったのです。その死から救い出すためにイエスの十字架を前もって用意されていたのです。そういう意味で、神様の計画として、私は善悪の木から食べなければならないのです。善悪の木から食べることはなるべくしてなったことなのです。私は死ななければならないのです。神様は食べることも、死ぬことももうわかっていらっしゃったんです。

私は、幼い信仰を持っていたとき、神様は善悪の木の実を食べたら死ぬっておっしゃったのに、死んでないやん。と思っていました。白雪姫がおばあさんからもらった毒入りリンゴを食べたらバタッと死んだように、アダムとイブもバタッと死ぬのが普通だと思っていました。でも神様は慈悲深い方だから、必ず死ぬとか言いながら、やっぱりかわいそうだからすぐに殺さんとこと思って、生かしたんかなと思っていました。旧約聖書を読むと、悪い人もいるけど、神様に忠実な良い人も出てきて、神様は、「うーん。やっぱり殺すのは惜しいなぁ、せっかく作ったのになぁ、でも必ず死ぬって言っちゃったし、そうだ。殺す事は殺しても、良い人間だけ生き返らそう!。」なーんて神様は思いはったのかなぁ。とか思っていました。わたしの洋服作りのように、最初こんな服作ろうと思い描き作っていくうち、布足らんようになったから、家にあったレース付けとことか、ここ短くしとことか。あれっ。最初、思ってたんと違う服できちゃった。そんないい加減なことを神様はなさらなかったのです。神様はいい加減ではないのです。

○民数記23章19節「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことをなさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」

そのうち分かってきました。神様の言われる死とは、私が思っていたようバタッと倒れるような死ではなく、アダムとエバがエデンの園から追い出されることでした。

○創世記4章23節「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」

なんで、善悪の知識の木を食べて、エデンの園から追い出されることが、死なの?と思いますが、私は本当の死の意味を知りませんでした。死とは病気で死んだり、事故で死んだりすることかもしれませんが、本当の死は神様から離れること、離別なのです。イエス様も十字架にかかられる前、もがき苦しまれたのはこれから鞭に打たれ痛いから、嫌だったからのではなく、弟子たちとの別れが辛かったのでもなく、(ちょっとはあったかな?)私達の身代わりとして罪を負い、罪人として神様から呪われた者になり、父なる神様と離別することだったと知りました。あの放蕩息子の話でも離れていた息子が帰ってきたときお父さんはこう言いました。

○ルカ14章24節「この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのがみつかったのだから。」

「死んでいたのが生き返り。」神様から離れて生きていた息子は人から見れば生きているようでも、神様から見れば死んでいたのです。

私は神様の計画通り善悪の木から食べ、死にました。その死は神様から離れると言うことでした。なぜ、神様は私をそんなふうに遠ざける計画を立てたのでしょうか?善悪の木の実なんか作らなかったらよかったんじゃない?と思いました。でも、もし善悪の木がなければ、創世記1章1節の「初めに」はなかったのです。それは、神様が私にとってどういう存在か教えるためでした。「私なしでは生きていけないだろう?」「私があなたの本当のお父さんなんだよ」と教えるためでした。

「初めに」が始まる前に用意された神様の計画。善悪の木を食べ、神様から離され死んだ私、その私をイエス様の十字架の死によって、罪なしと認められました。十字架による救い、それで神様のご計画は終わったのではありません。

○エペソ2章13~16節「しかし、以前は遠く離れていたあなた方も、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私達の平和であり、二つの者を一つ年、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄されたお方です。」

○エペソ3章11節12節「私達の主キリスト・イエスによって成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。私達はこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信を持って神に近づくことが出来るのです。」

父なる神と離され、生きているつもりでも実は死んでいる私達。イエス様の死によって、遠くにいた神様と私達は結び合わされ生き返える。それで「めでたしめでたし」ではないのです。神様の計画にはその続きがあるのです

すべて神様の計画、予定は、確実に、完璧に、今もなお、私達の中で、世界で実行されているのです。

○出エジプト4章22節~23節「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルは私の子、私の初子である。そこで私はあなたに言う。私の子を行かせて、私に仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、私はあなたの子、あなたの初子を殺す。』。」

これはエジプトの奴隷になっていたイスラエル人を脱出させるために神様がモーセにパロへ言わせた台詞です。エジプトで奴隷になっていたイスラエル人は言わば神様と離ればなれになった人々でした。神様はイスラエルの人々を私の子であるとおっしゃっています。

イスラエル人だけが子供なのでしょうか?

○ローマ9章23節~26節「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意されていた哀れみの器を対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためなのです。神は、この哀れみの器として、私達を、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセア書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、私の民ではない。』といったその場所で、彼らは、生ける神の子供と呼ばれる。」

○ガラテヤ4章4節~7節「しかし、定めの時が来たので、神はご自分の御子を使わし、この方を、女からうまれたもの、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者をあがない出すためで、その結果、わたしたちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ父」と呼ぶ、御子の御霊を、私達の心に使わして下さいました。」

そうです。私達も神の子供です。予め用意された哀れみの器です。かつてはエジプトの奴隷であったイスラエルの人々のように善悪に木から取って食べ、自分で善悪を考え、律法的に何でも考え、罪の奴隷だった私達を、十字架の死によって自由にして下さり、子供としての特権も与えて下さいました。

私は長い間、十字架による救いで終わっていました。救い主イエスが来られ、私達の罪のため死に三日目に復活したように、私は死んでも天国に行って永遠に生きるんだ。「めでたしめでたし」と思っていました。イエスもキリストもごちゃ混ぜでした。神様のご計画にその先があるのを知りませんでした。自分の罪が消えればそれでいいと考えていました。思えば身勝手な事です。でもアッパは終わらせませんでした。あきらめませんでした忍耐強く、熱心に約束を守られました。導いて下さいました。迷子になった子供を取り戻そうと一生懸命になって下さいました。

○民数記23章19節「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことをなさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」

私は今まで本当のお父さんを知りませんでした。お祈りする時、「天のお父様」と言っていましたが、それは、創造主であられる偉大な遠い所におられる方という存在でした。私にとってイエス様の方が、なじみがあり、聖書を読むとき、イエス様を知るために読んでいました。今から思うとひどい話で「父なる神様」の陰は薄かったのです。神様の約束も契約もごちゃ混ぜで、(イエスもキリストも約束も計画もごちゃごちゃ、つまり聖書がつながりませんでした)神様の約束は私たちの罪を許すために、救い主イエスを与えて下さる事だと思っていました。でも、それは、神様の約束を実行する一部であったことを知りました。それから、私にとって「天のお父様」はだんだん、今までの「天のお父様」ではなくなってきました。そう、だんだんです。

急にこの人があなたのお父さんですよと言われてもなぁ。という感じでした。親子関係というのは、おしめを替えてもらって、うんちをふいてもらって、おっぱいもらって(私の場合、粉ミルクだったらしいけど)離乳食を食べさせてもらって、片言しゃべれるようになったら喜んでもらい、歩けるようになったら手拍子して一歩一歩を応援してもらう。物心ついた時には、大槻昌一郎さんがお父さんで、大槻喜代子さんがお母さんでした。(私、旧姓大槻です)結婚して主人のお母さんをお母さんと呼びましたが、いわゆる実家の両親と違い気を遣いました。エー嫁さんになろう、エー娘になろうと思いました。汚い自分、アホな自分を見せたらあかんと思い心から安心して甘えられませんでした。実家の両親に、もし、エー娘でいようなんてことしたら、「どうしたんあんた?」と言われてしまいます。だって、両親は私のどうしようもなく悪い性格とか見て知っていますから。悪い私も、良い私も私で、私のすべて受け入れて、両親にとって私は子供なのです。だから急に私があなたの本当の父だよと名乗りを上げられても、ましてやなれなれしくお父ちゃんアッパ(Abba)なんてすぐに呼ばれへん。と思っていました。

○ヨハネ13章1節「さて、過越の祭の前に、この世を去って父の身元に行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分の物を愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」

○ヨハネ13章8節「ペテロはイエスに行った。『決して私の足をお洗いにならないで下さい。』イエスは答えられた。『もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません。』。」

この箇所を思い起こした時、はっとしました。イエス様を通してお父さんの愛が分かりました。私が物心つく前に、私がアッパ(Abba)を知る前にアッパは私を知っておられ、見ておられ、育てて下さっていたのです。

○第2テモテ1章9節~10節上 「神は私達を救い、また、聖なる招きを持って召して下さいましたが、それは私達の働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私達に永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私達の救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。」

「永遠の昔に与えられた恵み」それこそ、私が私を知る前、私達がFormless, Emptiness, Darknessの時からアッパは私を知っておられ、育(はぐく)んでこられたのです。

すごーく悪い子なのも知っておられるんだ。背伸びしなくていいんだ。うれしかったです。

今まで語ったようにお父様はまだ、私達がお父さんのことに気付かない時から、必ず私の子供にするという約束を、この約束を守らんと頑張っておられました。神様が約束を未だ果たせていない人がいることは、神様の我々に対する負債だと教えてもらいました。

○ガラテア4章7節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」

それならば、相続人である私達はその負債おも相続したことになります。ペテロさんはこんな風に言っています

○ローマ1章14節「私はギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債をおっています。」

ということはここにいる私達もペテロさんのように伝道旅行に行ったりしなくてはいけないのでしょうか?

○ルカ15章12節~14節「弟が父に、『私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代を二人に分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、なにもかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たした後で、その国に大ききんが起こり、彼は食べるのにも困り始めた。」

○ルカ15章17節「しかし、我に返ったとき彼は、こういった『父のところには、パンの有り余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ』。」

この息子は自分の力で出来ると思いアッパのいる国から遠い国に旅立ちました。遠い国、この息子にしたら、父親の目の届かない遠い所です。そして財産を使い果たしました。使い果たした後、使い果たした後、息子のいる土地に飢饉が起こったとあります。しかも、大飢饉です。偶然でしょうか?そして、息子は我に返ります。自分がどのような存在か分かったのです。自分の力では何も出来ないことに気づきました。彼はアッパの元に返ります。アッパの所では雇い人でさえ、有り余るパンをもらっているのです。雇い人が食べているパンは何パンでしょうか?あんパンでしょうかメロンパンでしょうか?パンってそういう事ではないと教えて頂きました。

アッパから命の源を頂かなければ、何も出来ません。

この息子のように、自分の力で生きていけると思っていても、アッパはいろんな事を通して、無理だよと教えて下さいます。私にとって伝道旅行とは、遠い所、近い所という距離、場所ではなくて、アッパに自分どのような存在か何回も何回も教えられ、そうアッパが私に伝道して下さり、歩ませてくださる信仰の旅路、それが伝道旅行です。アッパがツアーコーディネイターです。

皆さん、Happy First Anniversary 。お父さんからのこの素敵なプレゼントを頂いて一年が経ちました。Happy First Anniversary。かっこよく英語で言いましたが、日本語で言うと、一周年おめでとうございます。という言い方になると思います。おめでとうを英語で言うと、Congratulation か Happy です。努力して勝ち得た物に対して言うお祝いの言葉は Congratulation そうでないときはHappyです。たとえば、誕生日おめでとうは Happy Birthday!とは言いますが、Congratulation Birthday とは言いません。誰もさあ今から生まれるぞと努力して生まれた記憶のある人はいないと思います。反対に卒業おめでとうは Congratulation Education と言います。を Happy wedding を Congratulation Wedding と言ったら、一生懸命努力して相手をゲットしたという表現になって、失礼のことになります。

思えば、私達の今までは自分の努力により得た物ではなくて、神様の計画、導きによって与えられた物でした。私達の生涯の出来事は Congratulation ではなくHappyでした。アッパを知ったこと、皆さんと巡り会ったこともそうです。私の努力ではなくアッパの努力です。アッパ側からするとくびきの堅い、又はいい加減なこの者を導くことは並大抵なことではないと思います。

○ルカ15章10節「あなたがたにいいますが、これと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

神の御使いたちは私達に言っていることでしょう「Congratulation! 主よ。Happy! あんたがた」と。

Union Christ Church

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We are one family, serving one Lord, on one mission transformed lives.