全てが恵みでした!(渡利秀子)
今回、一人ひとり礼拝の日に前でイエス様を語ると言う宿題を牧師から与えられました。正直、戸惑いました。と言うのも雑談等で話すことは沢山有りますが、このような形で話をすることに恐れと何かプレッシャーを感じていました。
それは、今この年齢になっても、私は井の中の蛙で、田舎で育ち、聖書の知識は勿論、学歴も何の自身もないなど前で話が出来るような者ではないと、コンプレックスが頭を渦巻き自分という穴の中に落ちていました。
そのような時、ある日テレビで双葉百合子さんが「岸壁の母」を歌い継ぐ坂本冬美さんに、上手く歌おうと思わないで「心」で歌いなさいと言われた。という話しをしておられるのを聞きました。双葉さんの言われる心とは、思いやりとか優しい気持ちとか、どのような意味を含んでいたのか分かりませんが、その言葉にハッとさせられました。
「心」とは、それはイエス・キリストの心、お父さんの「心」 自分の心ではなく、頭で考えて話すのではなくお父さんに委ね、お話させて頂こうと思いました。お父さんは、双葉さんを通して私に教えて下さったのだと思いました。
湖に大暴風が起きて「主よ助けて下さい私たちはおぼれそうです」と言った弟子に、イエスが「なぜこわがるのか、信仰の薄い者達だと」言われた箇所がありますが。まるでそれと同じ状況です。
今まで、どれほど多くの恵みと愛でこのような、かたくなな私を、引っ張って下さったことでしょうか。主の良くして下さったことを何一つ忘れるなと言われる、その多くの恵みと感謝をどこか遠くに置いていました。
イザヤ書43:1~43:5だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。43:3 わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
このように愛して下さっているのに。目に見るもの見えるもの「全てが聖書である」神様はこの地上にある全てのものを通し、神であるお方を知るように願っておられる。
以前は聖書を読み知識を得、その知識を積み重ねて行くことが、神を知る道であると思っていました。また、聖書の御言葉は聖書の中での話で、自分を励まし力づけるもの、との理解に過ぎなかったのです。しかしこの地上にある、全てが聖書であると教えて頂き、初めは衝撃的でした。
しかしお父さんは、聖書の学びを通し、また色々なことを通して、聖書の知識からだけではなく書かれている内容そのものが、この地上において見える形で教えて下さっていることを理解させて下さいました。
創世記1:1 初めに、神が天と地を創造した。
この御言葉が天と地の創造だけでなく、自分自身の創造であることも教えて頂きました。今まで天と地は天と地であって、その御言葉の意味に自分自身の創造の意味も含まれていたことさえ知らなかったのです。
そして、次の御言葉に書かれているように
ヨハネの福音書14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
神様は遠くにおられる方ではなく、イエス・キリストが、お父さんが、私と一つになっていて下さることを教えて頂きました。御言葉そのものを私の心に入れて下さっていたのです。
地面が大きなシートで覆ってあっても、硬いコンクリートで埋め固められていてもその暗い土の中から一筋の光を求め、小さな隙間を通り地上に芽を出して来る植物のように、全ての人は神様によって造られ光であるかたを求め知るよう導かれている。そのように植物を通しても神様は教えて下さっていることに気付かせて下さいました。
ヨハネの福音書1:1~1:5初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
田舎で生まれ育った年月は、身近に自然を通して神である方を教えようとして下さっていたのです。何度、田畑を耕す風景をこの目で見て来たでしょうか。田舎育ちを卑下することは大きな間違いであったことをも気付かせて下さいました。
田畑は春になると、冬の間に固くなった土を掘り起こし種まきの準備をします。そして掘り起こしたその土の中に種を蒔き、その蒔かれた種が水と光で芽を出します。それと同じように、かたくなな私の心を耕し、私の心に神様の御言葉である種を入れて下さり、光であるイエス・キリストによって、暗闇から光の中へと導き出して下さったのです。
これが聖書だったのです。見えるもの見えないもの、全て聖書そのものの中に生かされていたことを、何年も知らなかったのです。今まで生きて来た年月は自分で考え、自分で選んで来たのではなく全てが、お父さんの壮大な計画の中で、その道を通る必要があったのです。そして大きな愛によって導かれ今に至るのです。
ガラテヤ人への手紙2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
この御言葉のとおりに、私が生きているのではなくキリストが私の内に生きておられ、私は生かされている事を教えて下さったのです。肉体を持っている現実は、自我・己との戦いで無くすことは自分では出来ない事でもあり、古い性質が時に顔をのぞかせる事もあります。しかし与えられている日々、少しずつでも相応しいものになれるようこれからの歩みを委ね、お父さんの願われる道を歩み続けたいと思っています。
二十数年前、初めて教会に行き、イエスに出会い、やっと人生の荒海から安らぎの場所にたどり着いたと思っていましたが。しかし港に長い時間、何処を向いて行けば良いのか分からないままに停泊し漂っていました。
しかし、なぜ生きているのか、生かされているのか、どうして苦しみを感じるのか、その理由を教えて頂き、暗闇から光の中へ引き出されしかし、今やっとお父さんと一つとなったのです。そしてUNION CHRISTとなり「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」と言われるキリスト・イエスと共に、これから新たな出航が始まるのです。
使徒の働き20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
全ての人にあなたの真理の御言葉の種が蒔かれていることを教えて下さって感謝します。本当に真理を求めている人が、お父さんの導きによって聖書を深く正しく知ることが出来ますように、あなたの奥義が開かれ、お父さんの家に帰り住むことが出来るよう導いて下さい。
ここまで導き引っ張って下さったお父さんに全てを感謝いたします。
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