「聖書を知りませんでした」西田博之さん
「聖書を知りませんでした」
西田博之と申します。
少しづつですが、自分が感じていることや考えていることを書きます。
イエス・キリストを信じて32年が過ぎました。
以前に所属していた「教会」では感謝なことが沢山ありました。
教会学校のスタッフや「教会」役員の経験もありました。
辛いこともありましたが、辛いことをさせてしまった経験がもっと沢山ありました。
御言葉の意味については本当にわからないことばかりでした。
同じ御言葉でも時と場合によって正反対の意味に思えてしまい、
何が正しい意味かを牧師に聞いても納得出来ませんでした。
自分を善、自分以外を悪としていました。
また、私は聖書を何も知りませんでした。
「教会」が何を指しているのかがわかりませんでした。
また、「牧者」がどなたであるかも知らず、「無牧」という言葉を使っていました。
「教会」は建物ではなく、キリストの中にいる人=Union Christになっている人を指し、イエス・キリストが私の牧者あると高牧師との聖書の学びを通して解りました。
さらに、聖書は自分が考え、信じていたものと正反対であることが解りました。
聖書は旧約39巻と新約27巻から成る本ということは知っていましたが、
創世記からヨハネの黙示録に至るまで
ただ一つのこと(十字架)、一人の方(イエス・キリスト)を語っている。
また世のもの全てが聖書であるということです。
聖書は自分の指針や生き方を導き出す本では全くないということです。
初めは何のことか全く解りませんでしたが、少しづつ聖書が繋がるのが解りました。
その衝撃と喜びは新鮮に蘇りますが、今も新しい衝撃と喜びが続いています。
と同時に「御言葉に刺される」ことが始まりました。
御言葉が善、自分が悪でした。今までと全く逆です。
今までの自分は御言葉で完全否定されました。
自分は否定され、聖書が繋がるのです。
そのことを教えて下さる神様に本当に感謝しています。
正しく御言葉を知る=聖書が一つになることを知ることが出来るのが本当の恵みです。
もちろん辛いこと寂しいこともあります。
それも何か目的があることに違いないと感謝したいです。(出来ませんが。)
これから先のことは私には解りません。
生かされている限り神様に感謝し、今まで知ったイエス・キリストを分かち合いながら、黙々と生きて行きたいです。
2018年2月10日
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